ipadは紙
iPadは紙
Kindleが本という形で流通してきた整えられた情報に新しい形を与え、流通できるようにした。
それに対してiPadは新しい紙なのだ。とあえて言いたい。
ここで紙と言うのは、単に読み書きできるといことだけであるならば、Kindleは本質的には読むという行為のためのシステムでしかない。対して紙とあえてiPadを捉えるのは、読むだけではなく、書く、それも本に線を引くというレベルの書くではなく、創造的な書くという行為をサポートし、拡張するからだ。
かかれた数式を自動的に計算する(numbersは当然そうだ)、
綺麗な線を引く、
写真を加工・修正する。
こういう作業は、従来コンピュータを使ってやるような作業だったが、iPadはそれを手元の、ノートでやることのようにしてしまった。
ユビキタスコンピューティングを専門とする土本先生の妄想にもあるが、あらゆる場所がこの新しい紙(=iPad)が張られてしまえば、コンピューティングの舞台になるのだ。それはもはやコンピュータではなく、長く我々が情報を扱うためのプラットフォームとしてきた紙のレベルの存在になるのだ。
我々の生きている世界は、全員で土台からシフトしてしまった。どのくらいのシフトなのかは、その土台の上に乗っているのでわからない。ズレを検知するためには、動かないものがどこかになければ、視覚的にはわからない。
例えば地球は自転しているが、その自転と同じ速度でわれわれも回っている。だから地球の自転を知覚できない。動かないもの、例えば太陽があることで、初めて自転していることを昼夜という現象で理解できるのだ。それでも我々は加速度としては地球の回転を自覚してはいないのだ。
iPadは土台をシフトさせた。それも全員、同じ方向にだ。全員が同時に同じ方向にシフトしたので、どのくらいシフトしたのかはわからない。でもシフトしたのはたしかだ。