地震以降の1週間のまとめ(備忘録として)
この度の地震で被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
僕が地震に出くわしたのは、ちょうど、仕事をお願いしているデザイン会社で打ち合わせがおわってコーヒーでものみに行こうかと立ち上がって準備をしている時だった。
地震は、はじめは軽い揺れから始まり、なんだかいつもより長いなと思った瞬間、大きく揺れて、踏ん張って立っていつのがやっとの状態になった。周りの棚はゆさゆさ揺れていた。ふと、天井まである本棚の前にいる人と目があった時、「このままいくと、棚は倒れてくるよなぁ。この人は下敷きだよなぁ、、、死ぬよなぁ。。。」とおそらく実際には1秒にも満たない時間だったが思った。そして次の瞬間、僕は何かを叫んで彼は飛びのいた。その直後、棚はちょうど彼のいた所に倒れてきた。
地震はそれからしばらくして収まった。
とりあえず、僕を含め、みんなでビルから出て、近くの小学校に、とりあえずで避難をしたものの、余震はずっと続き、電車は止まり、僕は帰宅難民になることがあっさりと確定したのだった。結局、知人の事務所に一泊お世話になることになった。
翌日、帰宅できたのは夕方だった。自宅そばの駅までは、守谷に自宅のある人と一緒に移動した。守谷へは、通常だとつくばエクスプレスなのだそうだが、その当時、開通の目処が立たず、JRも酷い状態だったので、彼は、大宮ー柏間でもっとも守谷に近い野田線の、とある駅からタクシーを利用することにしたからだ。(結果的に大正解で、ものすごくスムーズに帰ることができたそうだ。)
妻と息子は、元気だった。自宅はかなり揺れたらしいのだが、幸いなことに、地震の被害は、本棚から本が落下したことと、姿見が割れただけですんでいた。
翌日以降、僕は、まったく自宅から離れることができなくなった。地震が怖いというのはもちろんあったのだが、それ以前に、東武野田線が、朝と夜しか運行せず、しかも当初、朝の運行の予定は発表されても夜は運行するかわからないという状態だったからだ。都内に出ても帰宅できないんじゃぁ、どうしようもない。
仕方がないので、水曜日までは自宅で仕事をし、木曜日に都内で一泊することにして、今月までお世話になっている慶應の日吉キャンパスに荷物を取りにいき、そのまま、システムを開発してもらっている会社との打ち合わせや、次のプロジェクトの提案書のまとめなどの作業を金曜日の夜までこなして、帰宅したのだった。
地震については、いろいろ感じたことはあるのだけれど、とにもかくにも、今は僕にできることを一生懸命やっていくことしかできないと思う。僕はアーカイブシステムやデザイン、エンタテインメントの研究をしているのだが、こういうことが被災者に役に立つのはずっとずっと後のことだと思っている。じゃあ、なにもしないでいいのかというと、そういうことはない。社会を構成している一人の人間としては、社会のシステムを止めないということにはコミットし続けなければいけない。そうじゃないと、社会システムが死んでしまう。それはつまり、ちゃんと、買い物をして、食事をして、出勤して、仕事をするということなのだ。つまり、普通に生活することなのだ。だからぼくは、一生懸命、”普通に”仕事をし、生活を続けようと思う。