論文の書き方
少し前に、立て続けに2件ほど論文の構成の考え方を話す機会があったので、ここで少しまとめておきたい。
てにおはや語尾など様式的な問題はあるのだが、論文を書く上で理解をしておいたほうが良いことがある。
まず最初に論文とは何かということをさらっておきたい。多分、論文をどう書けば良いのかがわからない人はこの問いに答えられないのではないかと思う。本当の意味で書ける人には多分常識なのだが。
ちなみにこれは僕の私見である。以降も同様である。
論文は、ある学問の分野の発展に貢献する(した)研究の周知とアーカイブの仕組みである。
学会は、周知の仕組みであり、また、およびアーカイブすべきかということについて、ジャッジする仕組みである。
このジャッジを「査読」(review)と呼ぶ。したがって、査読の手続きにおいて論文に問われることは、その分野に貢献するかどうかである。この貢献は3つの要素に分解される。新規性と正当性、そして正統性である。
新規性は、その研究内容が「解こうとする問題、課題」「解決方法」「結果」のどれかについて新しいと認められれば良い。
正当性は、研究の内容が正しいと認められれば良い。
正統性は、その分野の研究であれば良い。
後者2点について先に検討しておく。
正統性については、論文が投稿される段階において、投稿者(執筆者)があらかじめ選んでいることなので、ほとんど問題となることはない。もし御門違いならば、門前払いができる。
(実際には情報科学技術のような複合的・綜合的な領域を扱う学問の場合は難しいことがあるが。。。)
正当性は、事実かどうか、正しいかどうかである。そもそも性善説でこれまで科学技術は発展してきているので、このことが問われることが実は問題なのだが、昨今の論文捏造等々で重要な問題となってしまっている。科学技術においては事実の再現性、再現性の無いものについては、正確性が求められる。人文・社会科学の分野でのこれは、正直よくわからない。
次に最初の新規性に戻る。
(ここから先は科学技術の分野に限定した話をする。人文・社会科学の分野では多分違うアプローチがあるだろう。)
新規性についてはすでに「解こうとする問題、課題」「解決方法」「結果」のいずれかが新しさであると述べた。
この3つが重要となるのは、この3つのうちのいずれかを論文が有するということが学問の発展に「貢献」するために必須だからである。
学問が発展するためには、新しい研究テーマが生れる、新しい問題解決アプローチが生れる、新しい発見や結果が生れる(あるいは提供される)必要がある。したがって、この3つのうちのいずれかの新規性を論文で主張することが求められる。
ちなみに、新規性の3要素は同時に2つ以上主張されてはいけない、という暗黙的なルールがある。
というか、次に書く新規性を支える(サポート)するための戦略を読むと、2つを同時に主張することは相当難しいし、現実的なアプローチではないことが理解できると思う。
新規性を主張するためのアプローチ
「解こうとする問題、課題」の新規性
これまで見向きもされてこなかった問題が、実は重要な問題だった。とか今までそれが解ける問題だ思われてこなかったことが実は解決可能な課題になりそうな問題であることが明かにされる、ということは科学技術の世界ではしばしば発生する現象である。
このような新規性は、研究課題の発見などいろいろな呼ばれ方をすることもある。解ける問題がみつかる、とかなければならない問題が決まるということは科学技術の分野をおこす上で重要になる。それが大きな問題であれば、大きな研究分野が生まれ、小さな問題でもそこには一定の専門性が生じるのだ。
この新規性を主張する際に重要なのは、その新規の問題が、解ける、あるいは解けそうに見える、ということだ。解けない問題は単なる妄想なのだ。例外は数学の仮説がある。仮説は仮説が提唱された時点では、解けてはいない。しかし数学的な正統性の伴う所定の手続きにそってその仮説が検証可能であることが担保されていなければならない。美しい仮説は検証できそうでできない、そんな喉が痒くなるようなものなのだ。
話が若干それたのでもとに戻す。問題の新規性を主張するためには問題が解ける、あるいは解けそうだということを示す必要がある。そのためには、力ずくで解いて見せるのが最も近道だ。しかし、重要なのは解ける問題であることを証明するのが目的だという点である。つまり、解いた結果は最重要ではないのだ。
問題が解けるということは、慶應義塾大学の稲見教授の例えを借りると、問題が因数分解可能であることを示すことだ。因数分解できるということはつまり、科学技術的な要素に還元できるということだ。要素に還元することができれば、それぞれについて解いていくことができる。だから、問題が解けることが重要になる。
「解決方法」の新規性
解決方法の新規性は、既存の問題を新しいアプローチで解くことに主眼がおかれる。ここで重要なことは問題は必ず既存の問題でなければならないことだ。例えば、ものの実空間上での位置を計測するという既知の課題に対して指尺しかなかったのに対して、定規という新しい方法が提案された、などという場合だろうか。
新しい方法が有効であることが証明できれば、指尺が使えない局面において、利用可能な技術となる。yet another、Plan Bになるのだ。科学技術は常にPlan Bが登場することで進んできた。
方法が複数あるということは、共通点、相違点、などを比べることを可能にする。れは、本質を理解する上でも重要な作業にほかならない。
この新規性を支えるのは、結果である。どんなに画期的な方法だったとしても問題を解いた際の答が間違っているならば意味はないのだ。しかし、ここで重要なことは正しい答がでることであって、比較対象となる技術Plan Aに対して必ずしも優れている必要は無いのだ。最低限、同等であれば十分なのだ。場合によっては劣っていても良い。しかし、劣る場合は同等になりうることが論理的に明らかであることが求められる。
「結果」の新規性
新しい結果は、極めて自明な新規性である。そこには事実しかない。
しかし、科学技術の場合、実験の結果は常に一意に定まる。つまり同じ問題を同じ方法で解いたら同じ結果がでなければならない。もし新規の結果だけが出てきたら、以前の結果が間違っていたか新しい結果が間違っているか、二者択一である。
社会科学などの場合、同じ実験を繰り返し行い、その結果が変化していくことを見ていくこともあるが、これはその全体が一つの実験として理解されるべきものである。従って、以前の結果を否定するための論文ではない限りにおいて、何らかのパラメータにおいて結果がより細かくなるかより正確になるかという方向しかない。例えば、計測のタイミングの時間間隔が細かくなったのでより正確なデータが取れるようになった。というような具合にだ。
しかし、社会科学などに近い分野の場合、結果の新規性は成立する。人を扱う心理学のような分野の場合、実験方法を改善し、結果が良くなる(この場合の良くなるは、精度などさまざまな要素が想定される)ということがしばしば発生する。改善は、方法を洗練する作業で、新規の方法の提案とするには不十分だ。このような場合は、結果の新規性が重要な意味を持つ。
以上が、基本的な論文執筆の戦略である。
いつか、もう少し、踏み込んだ話を書きたいと思う。