理解の物語あるいは似非科学の科学性

twitterで議論になっていた話題を少しひっぱって書く。

我々人間の多くは、物事を理解する際に、物語が必要となる。ここでいう物語とは昔話のようなものではなく、或る種の因果関係の連鎖のモデルに落とし込むということである。 例えば、水にやさしい言葉をかければ、美しい結晶ができるという似非科学がある。一時期、稚拙な道徳教育でもてはやされた物語だ。科学技術について一定程度の教育を受けていれば、もはやギャグ以外の何ものでもないこの物語は、我々の理解の仕方について一定の知見を与えてくれる。この物語の因果関係を整理する。

  • やさしいということは美しい(正確には”美”徳)ことである。(やさしいー>美しい)

  • 水の結晶は美しいものである。(水の結晶ー>美しい)

また、道徳的には以下の連想もおそらく入れて良いだろう。

  • やさしいことをすれば美しいこと(ものではない)が増える。

ここでいう”こと”というのは道徳的に美的である行為がやさしいことをすれば増えるということで、やさしいー>美しいが真である限りにおいて、自明的に増えるということを示しているにすぎない。

ここに下記のまちがった連想が2つ入る。

  1. 美しいものは水の結晶である。

  2. もの=こと

1は必要十分の関係の混乱である。水の結晶は美しいものの一種でしかない。水の結晶を指して美しいものと言うことは可能だが、美しいものを指して水の結晶とは言わない。

2は物質と状況の混同である。やさしい行いが人間の価値観としての”美しい”を触発することはありえるが、物体を生み出すことは無い。

この2つの連想が入ることで、「水にやさしいことばをかけることは美しいことなので、美しいものが生れるはずである。水の美しいものは水の結晶なので、美しい結晶が生れるはずである。だから水にやさしいことばをかけると美しい結晶ができるはずである。」という珍妙な物語が生れる。

この物語は当然、まちがっているのだが、その間違いは先に述べたまちがった連想が入ったことによるものだ。

実はこのような間違った連想が入っている問題は意外と多い。有名なものは「割れ窓」現象や「落書き現象」である。窓が割れたままになっていたり、落書きが放置されていたりすると、町の犯罪が増加し、住民が団結して美観を維持すると、犯罪が減るというモデルである。これも発端となったイギリスの事例(的なもの)については、社会学的にはすでに否定されており、犯罪が現象した原因は、その10数年ほどまえに施行された中絶に関する法律によるものである。このモデルにも、美しい行いは良い結果をもたらすという先入観(宗教観?)が存在している。