主語と述語
学生の論文を見ていて、また自分で論文を書いていて、モヤモヤとした文章になってしまっていることがある。
このモヤモヤを発生させる要因を考えてみると多分、以下のようなものに集約できるのではないかと思う。
主語が不明確になっている。
複文としての設計が上手くいっていない。
文章のコンテクストがその前段階で準備できていない。
主語が不明確なのは、最後のコンテクストの設計にも関連するのだが、誰が(もしくは何が)そのことを主張(もしくは説明)しているのかということである。状況説明のような文章にも主語は存在する。”説明されている状況”そのものが主語(もしくは主部)になる。この意識は、会話や会話文の中では比較的忘れがちだし、忘れてもよいことが多い。なぜならば、発話者が明確な場合は、その発話者が主語の不在を聴取者(読者)が補完できるからだ。しかし、論文のような文章の場合、このような補完は前段階の文章におけるコンテクストの伝達が十分に保証されていなければ難しい。率直に言ってかなり高度な技術だと思う。したがって、論文における文章には、主語は必須だと考えたほうがよい。
複文は、一つの文章に複数の文章が含まれている文章である。正確には述語が複数存在するものを指す。この記事の冒頭の「モヤモヤとした文章になってしまっていることがある」という文章は複文である。「モヤモヤとした文章になってしまっている(ことが)」が主部でこの中に主語と述語がある。そして「ある」は述語である。この主部と述部がそれぞれちゃんと主部と述部として読めるかどうかが文章の明瞭度を決める。
文章のコンテクストは、通常意識されることは少ないのだが、実は文章の明瞭度を決める上で最も重要になる。文章は時系列情報で、今読まれている文章からイメージされることがらは、それ以前に読まれた文章によって制限することができる。解りやすい例としては、文章のタイトルや章題がある。これらはそれに続く文章の内容(正確には読者がイメージする内容)を強力に規制する。このことは段落の中でも発生する。これを僕は「理解のステップ」と読んでいる。明瞭かつ解りやすい文章は、この理解のステップが適切に設計できていることが重要となる。
理解のステップの設計は、基本的には以下の2つのことを一貫して適用することである。
一つ前の文章が次の文章で説明できる範囲を規定する。
文章は以降の文章で説明することを定義することができる。
これらは普段文章を書いていて意識することは少ないが、実は当たり前のこととして我々は行っている。上記のルールはそれを明文化したにすぎない。しかし、これを一貫して適用することで、文章は劇的に構造化される。
また、ステップという表現を行っているように、この構造化の考え方は、ベースに、文章による説明とその理解は段階を追ってなされる、というモデルが前提となっている。したがって、読み手の前提として持っている知識の範囲やレベル(リテラシー)の程度が与件として書き手に与えられるならば、説明したいゴール(結論)に向うまでのステップの高さを調節したり、一部を省略したりすることができる。このステップの考え方で論文を読むと、モヤモヤした部分が明瞭になる。