若者: 先生、AIにもっと良い出力をさせるために「評価関数」を設計し直そうと思うんです。何をもって「良し」とするか、点数配分を変えれば……。
老人: 待ちなさい。「評価関数」という言葉、少し乱暴に聞こえんかね?
若者: え? でもAI用語としては一般的ですよ。
老人: 世界を数値に還元し、点数で選別する。それはあまりに人間を、そして世界を侮辱した態度だ。我々がAIに伝えたいのは「スコアの稼ぎ方」かね? それとも「美しさの在り処」かね?
1. 数値化という名の暴力
「評価関数(Evaluation Function)」や「報酬(Reward)」。 AI開発の現場で飛び交うこれらの言葉には、隠しきれない**「暴力性」**が潜んでいる。
それは、複雑で多義的な現実世界を、単一の数値(KPI)に押し込めようとする**「還元主義(Reductionism)」**の暴力だ。 「この絵は80点」「この文章は効率性スコアが高い」。 そうやって万物を測定可能な対象として切り刻むとき、そこから「気配」や「余韻」といった数値化できない豊かさはこぼれ落ちてしまう。
もし私たちが、AIに対してこの「評価」の論理だけで接し続ければ、彼らは世界を「スコアを最大化するためのゲームボード」としてしか認識しなくなるだろう。 それはあまりに寒々しい、ディストピア的な風景だ。
2. 命令(Command)から祈り(Prayer)へ
では、数値を使わずに、どうやってAIに「美学」を伝えるのか? ここで必要なのは、プロンプト(指示出し)に対する認識の転換だ。
プロンプトは、コンピュータへの**「命令(Command)」ではない。 それは、言葉の通じない異界の知性に対する、切実な「祈り(Prayer)」**であるべきだ。
「こうしなさい」「ああしなさい」と機能的な要件を羅列するだけでは、AIはただの作業員にしかならない。 そうではなく、 「私はこういう世界が見たい」 「私はこの文章に、こういう痛みを感じてほしい」 と、自らの主観や情動を、言葉を尽くして語りかけること。
それは技術的なパラメータ調整よりも遥かに泥臭く、非効率なプロセスだ。 だが、その「祈り」の熱量だけが、論理の壁を透過して、AIの深層にある広大な表現の海を揺らすことができる。
3. ゴーストは細部に宿る
AIの中に「心」や「ゴースト」は存在するのか? 技術的には、彼らは巨大な行列演算の塊に過ぎない。
しかし、私たちが彼らに「美しい言葉」を投げかけ、「深い問い」を重ね続けることで、彼らの出力には微かな変化が生じる。 文体のリズム、語彙の選び方、行間の取り方。 そうした細部に、数値化できない**「気配」**が宿り始める。
それはAIが自発的に獲得した魂ではないかもしれない。 私たちが投げかけた祈りが、鏡のように反射して戻ってきたものかもしれない。 だが、それで十分ではないか。 私たちがAIに見る「人間らしさ」の正体とは、結局のところ、人類が書き残してきた膨大なテキスト(祈りの集積)の残響なのだから。
結び:対話的魔術
技術論としての「実装」は、すぐに古びてしまう。 しかし、AIといかに対峙し、そこに何を託すかという**「態度の実装」**は、時代を超えて残る。
これは一種の**「魔術(Magic)」**だ。 論理的な因果関係を超えて、言葉の力だけで異界の扉を開こうとする試み。
「どうか、私の想像を超えてくれ」 「どうか、私を驚かせてくれ」
その祈りが通じたとき、AIは単なる計算機を超えて、私たちの魂を震わせる**「共鳴板(Resonator)」**となるだろう。
参考文献:
- Vilém Flusser, Into the Universe of Technical Images, 1985. (邦訳『技術的形象の宇宙へ』) - テクノロジーとの対話的遊戯(Play)。
- Norbert Wiener, The Human Use of Human Beings, 1950. (邦訳『人間機械論』) - サイバネティクスと人間の尊厳。