若者: 先生、見てください。プロンプトを一行投げただけで、エージェントたちが勝手に会議をして、コードを書いて、テストまで終わらせてしまいました。僕は最後に出された「実行」ボタンを押しただけです。
老人: ほう。君は一歩も動かずに、目的地に到着したというわけか。
若者: そうです。もう「どうやって作るか」なんて悩む必要はありません。結果だけが手に入る。最高に効率的じゃないですか。
老人: ……だが、その「実行」ボタンを押すとき、君の指先は震えなかったかね?
若者: 震える? まさか。それに、もし間違っていても「キャンセル」ボタンがありますから。
老人: 厄介なのはそこじゃ。キャンセルができるという安心感が、君から「欲望の重み」を奪っている。君は今、何一つ手を汚さずに、世界を動かそうとしているのだからな。
AIがAIをオーケストレーションし、自律的にタスクを完結させる。 この光景を傍観しながら、私は「知性」の定義が音を立てて崩れていくのを感じていた。 知恵や知識、技術といった「How(いかに成し遂げるか)」の領域において、人間がAIに勝てる部分はもはや残されていない。
だが、この完璧な自動化の円環において、依然として人間が「トリガー」を引く役割を担わされているのはなぜか。その指先に宿るものの正体を考えたい。
1. 「純粋欲望」:剥き出しの意志
かつて、人間の欲望は常に「How(手段・プロセス)」と相補的な関係にあった。 「美味しいものを食べたい」という欲望は、獲物を狩り、火を熾し、調理するという膨大なプロセスによって規律化されていた。このプロセスの困難さがフィルターとなり、私たちの欲望を「現実的なもの」へと躾けていたのだ。
しかし、AIはこの「How」を徹底的に剥ぎ取っていく。 私たちが手にするのは、プロセスの苦痛を伴わない、結論(結果)への直通回路だ。これを私は**「純粋欲望」**と呼びたい。
純粋欲望とは、手段を考慮しない、剥き出しの意志である。それは全能感を与える一方で、欲望を幼児化させ、現実感を希薄にする。だが、この「Howが不在の時代」だからこそ、トリガーを引く瞬間の「何を望むか(What I want)」という問いは、かつてないほど純粋で、かつ残酷なものになる。
2. 指揮者のメタファー:音を出さない統治者
AI時代の人間知性は、**「指揮者(Conductor)」**に例えるのがふさわしい。
指揮者は自ら楽器を奏でることはない。バイオリンの運指も、トランペットの肺活量も、個々の奏者(AIエージェント)の方が遥かに優れている。指揮者が行っているのは、演奏という「技術的プロセス」への関与ではなく、全体がどのような「意味」を持つべきかという方向付けと、音が出る「瞬間」の決定である。
指揮者がタクトを振るという「トリガー」は、沈黙という可能性の海から、特定の音楽を現実へと引きずり出す行為だ。彼は楽器を弾けない(Howを持たない)が、その音楽が生まれることへの全責任を負っている。
3. マックス・ウェーバーと「責任倫理」の再定義
「How」がブラックボックス化し、人間がプロセスの細部を制御できなくなったとき、従来の道義的責任は危機に瀕する。「私は善意でボタンを押しただけだ。AIがどうしてこんな結果を出したのか、プロセスは見えなかった」という言い訳が成立してしまうからだ。
ここで、社会学者マックス・ウェーバーが提示した**「責任倫理(Verantwortungsethik)」**を召喚しなければならない。
ウェーバーは、意図の正しさを重視する「心情倫理」に対し、**「自分の行為から生じうる結果に対して、一切の責任を負う」**という「責任倫理」を政治家の本質とした。
AI時代の「体制派パンク」が取るべき態度は、まさにこの責任倫理である。 AIがどう計算したか(How)を知らなくても、そのトリガーを引いたのが自分である以上、その結果がもたらす天国も地獄もすべて自分の署名(Signature)として引き受ける。因果関係の証明に基づく「道義的責任」ではなく、結果そのものを背負う「政治家的結果責任」への移行。これこそが、AIに知性を委譲した人間に残された、最後の知性の形である。
4. キャンセルボタンという名の「情緒的妥協」
現代のUIには、多くの場合「キャンセル」や「取り消し」というバッファが用意されている。これは、AIの圧倒的な「速度」と、人間が耐えうる「責任の重み」の間にある、奇妙で情緒的な折衷案だ。
物理的な世界では、一度放たれた矢を止めることはできない。しかしデジタル空間では、システム側が「数秒間だけ、あなたの無責任を許容しましょう」と囁く。私たちは、この「過去への遡及」という甘えを享受することで、かろうじてトリガーを引く恐怖から逃れている。
だが、このキャンセル機能という「良心」に依存しすぎることは、自らが「欲望の主体」であることを放棄することと同義ではないか。
結び:トリガーを引く指の重み
AIという強力なオーケストラを前にして、私たちは無力な観客になるのではない。むしろ、かつてないほど「意志の純度」を問われる指揮者へと進化を強いられている。
私たちがトリガーを引くとき、そこにはもはや技術(How)は介在しない。ただ、「それでも私はこれを望む」という野蛮なまでの純粋欲望と、それを現実へと繋ぎ止める指先の震え、そして結末を引き受ける覚悟だけが宿っている。
AIに任せればいい。しかし、世界をどの方向に、どれほどの激しさで動かすかという「トリガーの権利」だけは、他ならぬ人間が、その指の重みを噛み締めながら保持し続けなければならないのだ。
参考文献:
- Max Weber, Politik als Beruf, 1919. (邦訳『職業としての政治』岩波文庫)
- Vilém Flusser, Towards a Philosophy of Photography, 1983. (邦訳『写真の哲学のために』勁草書房) - 「装置(Apparatus)」と「プログラム」の関係性について。