若者: 先生、見てください。このAI、0.5秒で論文を読み終わりましたよ。
老人: ほう、それは薪が燃え尽きるよりも速いのう。
若者: 当たり前でしょう。……先生、またそうやって茶化す。
老人: 茶化してなどおらんよ。ただ、速すぎることは、時として空間そのものを消してしまうということを案じているだけじゃ。かつてポール・ヴィリリオが予言したようにな。
確かに速い。かつて数時間かけて読み解いた難解な文献が、瞬きの間に要約されている。 だが、その速度に酔いしれる若者の姿に、フランスの哲学者ポール・ヴィリリオの不吉な予言が重なる。
「速度は、空間を消滅させる」1
かつて鉄道や飛行機は、物理的な距離を縮めることで世界を狭くした。 今、AIという「思考の加速装置」は、思考のプロセスという「時間的な距離」さえも消滅させようとしている。
思考の速度学
ヴィリリオは、歴史を「速度の政治学」、すなわち**「速度学(ドロモロジー)」**2として読み解いた。 権力とは常に、誰よりも速く移動し、速く情報を伝達する能力のことだった。 だが、速度が極限まで加速すると、奇妙な逆転現象が起きる。
彼はそれを**「極慣性(Polar Inertia)」**3と呼んだ。 あまりに速く移動できるようになった結果、人は逆に動く必要を失い、モニターの前でカプセルに閉じ込められたまま、世界中のあらゆる場所に「到着」してしまう状態だ。 身体は不動のまま、視覚と情報だけが光速で飛び回る。それは一種の「幽閉」である。
現代のAI体験は、まさにこの「思考の極慣性」ではないか。 私たちは問いを投げた瞬間、思考の旅路をすべて省略して、結論という「目的地」に到着する。 迷う時間も、資料の山で途方に暮れる時間もない。 そこにあるのは、プロセスを剥奪された、結果だけの純粋な消費だ。
情報エネルギーと「灰色の生態学」
ヴィリリオはまた、情報を石油や電力と同じ「エネルギー資源」として捉えていた。 質量を持たない情報が、物理的な現実を動かす動力源となる。 だが、すべてのエネルギー機関が排気ガスや放射性廃棄物を出すように、情報エネルギーもまた汚染を生み出す。
彼はそれを「灰色の生態学」4と呼び、距離や大きさといった私たちの認識環境が汚染されることを危惧した。
AIが生み出す「即時的な正解」は、確かに便利で高効率なエネルギーだ。 しかし、その副作用として私たちは**「待つことの不能化」**という精神的な汚染に晒されていないか? 0.5秒の遅延にイラつき、3行以上の文章を「長すぎる」と切り捨てる。 思考の肺が、即時性という排気ガスで黒く煤けていく。
遅延する身体、発酵する時間
ここで問題になるのが、私たちの「身体」だ。 脳(あるいは外部化された脳としてのAI)は光速で処理できても、生身の身体はそうはいかない。
「わかる(理解)」と「かわる(変容)」の間には、決定的なタイムラグがある。 論理的に正しいとわかっていても、腹落ちするまでには時間がかかる。 悲しみを情報として処理できても、涙が乾くまでには物理的な時間が必要だ。
この**「遅延(Lag)」**こそが、実は人間性の最後の防壁(サンクチュアリ)なのではないか。
AIは「情報の爆弾」を投下し、瞬時に焼け野原を作るように結論を出す。 だが、人間はその焦土に立ち、時間をかけて雨を待ち、種を蒔き、芽が出るのを待たなければならない。 その、もどかしいほど遅く、非効率な「発酵」の時間の中にしか、独自の思想や、血の通った哲学は宿らない。
意識的に「歩く」勇気
若者はまだ、画面の中の流れるようなテキストを目で追っている。 老人は彼に、あえて時代遅れな提案をすることにした。
「速いのはわかった。だが、たまにはそのF1マシンから降りて、歩いてみないか?」
「歩く? 文献をですか?」
「そうだ。AIに要約させる前に、1ページだけ、自分の目で読んでみる。あるいは、答えが出た後に、あえてその答えを寝かせてみる」
即時性が支配する世界で、意図的に「遅延」を作り出すこと。 それは、ポール・ヴィリリオが恐れた「全体的事故(Integral Accident)」5――世界中のシステムが同時に機能不全に陥るような破局――に対する、個人のささやかな抵抗かもしれない。
私たちは光速で思考できる翼を手に入れた。 だからこそ、地上を這う足の重みを、愛おしく感じる感性を失ってはいけないのだ。 速度という名の幽閉から脱出する鍵は、パラドキシカルだが、「遅さ」の中にしか落ちていない。
Paul Virilio, Speed and Politics, Semiotext(e), 1977. 邦訳『速度と政治』(平凡社, 1989) などで繰り返し語られるドロモロジーの基底概念。 ↩︎
ドロモロジー (Dromology): ギリシャ語で「競走 (dromos)」と「学問 (logos)」を組み合わせたヴィリリオの造語。速度が社会構造や人間知覚に与える決定的な影響を研究する概念。 ↩︎
Paul Virilio, Polar Inertia, Sage, 2000. 原著 L’Inertie polaire (Christian Bourgois, 1990) ↩︎
Paul Virilio, The Information Bomb, Verso, 2000. 邦訳『情報・爆弾』(産業図書, 2002) や Open Sky (1997) で展開される、情報の加速による知覚環境の汚染についての概念。 ↩︎
Paul Virilio, The Original Accident, Polity, 2007. 原著 L’Accident originel (Galilée, 2005) ↩︎