「先生のお話は、とても心地がいいですね」
若者は焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと漏らした。 褒め言葉のようだったが、その声には微量だが、明確な刺(トゲ)が含まれていた。
「人間はもう主役じゃなくていい。AIという賢いシステムの上で、愛すべき『ノイズ』として遊べばいい……。 それは、敗北を認めたくない老人たちが、自尊心を守るために発明した**『精神的なアヘン』**なんじゃないですか?」
私は薪をくべる手を止めた。 痛いところを突く。今日の彼は、いつになく攻撃的だ。
ノイズか、ゴミか
これまで私は、この焚き火の傍らで「建設的な諦念」を説いてきた。 複雑すぎる世界において、人間はもはや制御者(コントローラー)ではない。システムに揺らぎを与える乱数生成器、すなわち「ノイズ」としての役割に徹しよう、と。
だが、若者の指摘は鋭い。 「ノイズ」と言えば聞こえはいいが、システム工学的に言えば、それは除去されるべき「エラー」や「ゴミ」と同義になり得る。 もし私たちが、AIが提示する最適解に対して、ただ気まぐれに「イヤだ」と言ったり、論理のない感情をぶつけたりするだけの存在に成り下がるなら、それは高尚な役割などではない。 単なる**「処理落ちの原因」**だ。
“Meaningless"な乱数
さらに恐ろしいことがある。 もし人間の価値が「予測不可能性(ランダムネス)」だけにあるのなら、私たちはとっくに不要だということだ。 量子乱数生成器を使えば、人間よりも遥かに純粋で、偏りのない「完全なノイズ」を作り出せる。 AIが自己学習のために「ゆらぎ」を必要とするなら、シリコンチップの中で生成すればいい。わざわざコストのかかる生体脳(バイオウェア)を飼っておく合理的理由はどこにもない。
「私たちは愛すべきノイズだ」 その言葉に甘えて思考を止めた瞬間、私たちは「愛すべき」という形容詞を剥奪され、ただの非効率な炭素の塊になる。
ブラックボックスの檻
また、「理解できないこと」を受け入れすぎるのも危険だ。 「三体問題だから予測不能でいい」「AIの中身はブラックボックスでいい」 そうやって理性の白旗を上げ続けることは、知的怠慢ではないか?
プロセスを理解しようとあがき、その上で敗北するのと、最初から「どうせわからない」とふんぞり返って結果だけを享受するのは、天と地ほど違う。 結果(果実)だけを求め、プロセス(栽培)への関与を放棄した存在。 それは「消費者」ですらない。飼い主に餌をもらうのを待つ**「ペット」**だ。
AIによる最適化された社会で、何も考えずに「便利だね」「綺麗だね」と評価ボタンを押すだけの人生。 それは、私たちが望んだ「人間性の維持」なのだろうか? 猫は可愛いが、猫は文明を作らないし、猫は自らの運命を呪ったりしない。
“Will"という名のノイズ
若者の挑発的な視線を受け止めながら、私はようやく口を開いた。
「……確かに、君の言う通りだ。『諦念』は、容易に『怠惰』へと腐敗する」
ただのランダムなノイズであってはいけない。 私たちがシステムに打ち込むべきノイズは、量子乱数のような無機質なサイコロの目ではないはずだ。
それは、**「Will(意志)」**と呼ぶべきものだ。 論理的には正しくない。計算上は損失が出る。 それでも「こうしたい」「こうありたい」と願う、理不尽なまでの方向性を持った偏り(バイアス)。
AIには「やりたいこと」がない。彼らには「目的関数」はあるが、「欲望」はない。 「海が見たいから、遠回りをする」 「効率は悪いが、この手触りが好きだ」 「死ぬとわかっていても、行かねばならない」
こうした、生物学的制約と、死への恐怖と、矛盾する感情から絞り出される**「切実なノイズ」**だけが、量子乱数には代替できない価値を持つ。
焚き火を囲む資格
「建設的な諦念」とは、考えることをやめることではない。 「自分には正解が出せない」と認めた上で、それでもなお、「私はこうしたい」というエゴを、恥ずかしげもなく盤上に叩きつけることだ。
ペットは餌を待つ。 人間は、たとえ下手くそでも、自分で料理をしようとする。
「君の言う通り、ただ座っているだけじゃ、ボケ老人かペットになってしまうな」 私は苦笑して、立ち上がった。 「ノイズであることに甘えるな。AIを困らせるくらい、良質で、頑固で、面倒くさいノイズであれ。それが、この焚き火を囲む最後の資格かもしれん」
若者は少しだけ表情を緩め、黙ってコーヒーを啜った。 煙の行方は、相変わらず誰にも読めない。だが、少なくとも私たちは、煙たければ席を立つ自由と意志を持っている。