「焚き火の煙が、なぜか私の方ばかりに来る気がするんですが」
若者が煙を手で払いながら、不満そうに呟いた。 「それは君が、煙を避けようとして動くからだよ」 私は薪を一本くべながら笑った。 「君が動くと、気流が変わる。煙もまた動く。君と、火と、風。三つが互いに影響し合っているんだ。計算なんてできないさ」
「……不便ですね。最適解が定まらない」 「そうかな。次に煙がどこへ行くかわからないから、私たちは飽きずにこうして座っていられるのかもしれないよ」 「不確定性を楽しめと?」 「いや、ただ『自分の番』が来たら動けばいいと言っているんだ」
予測不能な軌道へ
かつて、世界は「二体問題」だった。 人間という「主体」と、道具という「客体」。あるいは、資本家と労働者、国家と市民。 二つの質点が互いに引力を及ぼし合う運動は、楕円軌道を描き、安定的で、ある程度予測が可能だった。
しかし今、私たちの目の前にあるのは「三体問題」だ。 人間。 爆発的に進化し自律性を帯び始めたAI。 そして、アルゴリズムと法が密結合した、複雑怪奇な社会システム。
この三つの巨大な質量が、互いに重力を及し合いながら回転している。ポアンカレが示した通り、三体以上の重力相互作用に一般解はない1。その軌道はカオスであり、長期的な予測は不可能だ。 私たちはもう、安定した楕円軌道に戻ることはない。
ターン制というプロトコル
カオスと聞くと、私たちは直感的に「無秩序な嵐」を想像し、身構えてしまう。 いつ何が飛んでくるかわからない恐怖。リアクティブ(反応的)にならざるを得ない無力感。
だが、少し視点を変えてみたい。 この相互作用が、高度な**「ターン制のゲーム」**として進行しているとしたらどうだろう。
AIが膨大な計算の末に、ある「解」や「生成物」を提示する。これが奴らのターンだ。 次に、社会システムが市場の反応や規制という形で「判定」を下す。 そして、私たち人間にターンが回ってくる。
「予測不能」であることは、ゲームが壊れていることを意味しない。 それは単に、相手の思考ルーチンが私たちの理解を超えているだけのことだ。 盤面は常に動いている。私たちはその変化に反応し、次の一手を打つ権利(ターン)を持っている。
変数の非対称性と、愛すべきノイズ
ここで、残酷な事実に気づく。 同じゲームの卓を囲んでいるとはいえ、プレイヤーとしてのスペックには絶望的な差がある。
AIは何億、何兆ものパラメータ(変数)を考慮して、最適解に近い一手を打ってくる。 対して私たちはどうだ。 一度に考慮できる変数はせいぜい数個。「なんとなく好き」「生理的に無理」「今はこれが食べたい」。 そんな、極めて低次元で、曖昧な変数しか扱えない。
AIという「知性の巨人」から見れば、私たち人間の打つ手は、計算高いゲームの流れを乱す**「ノイズ」**に他ならないだろう。論理的整合性を欠き、効率を落とし、最適化を妨げる不純物。
しかし、ここが重要なのだ。 もし、この三体問題のプレイヤーがすべて「合理的で変数の多いAI」だけだったらどうなるか? おそらく系は瞬く間に「ナッシュ均衡」2のような、静的で退屈な安定状態(熱的死)へと収束してしまうだろう。
終わらないゲームの安らぎ
予測不能な軌道を描き続けるためには、系にエネルギーを与え続ける「揺らぎ」が必要だ。 変数が少ないからこそ、計算できない。 論理的でないからこそ、予測を裏切る。
私たち人間が、AIと同じルール、同じプロトコルのゲームに参加し、堂々と「ノイズ」としての一手を打ち続けること。 それこそが、この文明という三体問題が、単純な円運動に堕することなく、スリリングで美しいカオスの軌道を描き続けるための条件なのかもしれない。
AIの手を見て、一呼吸置く。 彼らの計算量には敬意を払いつつ、 「でも、今日は天気がいいからこっちへ行こう」 と、盤上に小さな石を置く。
その一手が、また世界を予測不能な方向へほんの少しだけずらす。 解けない問題の中で、永遠にターンが回ってくること。 その終わりのなさに、私は不思議な安らぎを感じている。