場所: 選挙期間中のある夜。焚き火の爆ぜる音が、遠くの選挙カーの幻聴をかき消すように響く。

登場人物:

  • 老人: 社会の「制御不能性」を受け入れている者。
  • 若者: 「正解」を求める現代的な不安を抱える者。

若者: 先生、「チームみらい」の支持率、すごいことになってますね。 「政治家というバグを排除する」ってキャッチコピー、正直ちょっとスカッとしませんか? 人間がやるから汚職も起きるし、感情論で決定が遅れる。AIに任せれば、全部クリーンで最適になる……。これこそ僕らが待っていた「アップデート」じゃないんでしょうか。

老人: ふむ、アップデートか……。 わしにはむしろ、100年前の亡霊が新しい服を着て蘇ったように見えるがね。

若者: 亡霊? 最新のアルゴリズムですよ?

老人: 中身は最新でも、見ている夢は古色蒼然(こしょくそうぜん)とした「社会工学」そのものじゃよ。 「社会という機械は、正しく計算して操作すれば、思い通りに制御できる」という信仰だ。 彼らはAIという神託を使っているが、その根底にあるのは「人間が世界をコントロールできるはずだ」という、あまりにも人間的な傲慢さだ。

若者: でも、今の政治家の「なぁなぁ」な決断よりはマシじゃないですか? AIなら、データに基づいて公平に判断できます。

老人: そこだ。「判断」と「決断」は違う。 彼らはAIに権限を渡そうとしているようで、本当は「決断」という重荷を背負いたくないだけかもしれんぞ。 誰かが傷つくかもしれない選択を、自分たちの手でしたくない。「AIが決めたことだから」と言って、責任をロンダリングしたいだけではないかな。

若者: 責任の……ロンダリング……。

老人: そう。これは権限の奪い合いに見えて、実は「貧乏くじ」の押し付け合いなのかもしれん。 火を見ながら、少し整理してみようか。


「チームみらい」が映し出すもの

2026年の衆院選で注目を集めた政党「チームみらい」の主張は、ある種の清々しさと、強烈な既視感を同時に与えるものだった。「法律のアルゴリズム化」や「行政判断の自動最適化」。彼らのマニフェストは、一見するとAIネイティブ世代による新しい政治の夜明けに見える。

しかし、その根底にある思想を掘り下げていくと、そこに見えてくるのは未来ではなく、むしろ19世紀から20世紀にかけて人類が夢見た**「社会工学(Social Engineering)」の亡霊**だ。

彼らの主張はこうだ。「社会は複雑になりすぎた。人間による調整(政治)はバグだらけだ。だから、公平無私なアルゴリズムにエンジニアリングさせよう」。 ここには、**「社会は設計・制御可能なシステムである」**という、極めて「人間的」で「近代的」な前提がある。彼らは最新のAIを使いながら、実は「正しく計算すれば、正解が出るはずだ」という、古い合理主義の夢を見ている。

操縦席の椅子取りゲーム

一方で、これを批判する既存政党や識者たちの言葉もまた、同じ穴の狢(むじな)であるように響く。

「AIに人の痛みはわからない」「最終的な政治決断と責任は人間にしか取れない」。 これらの批判はもっともらしく聞こえるが、結局のところ、**「社会という乗り物には操縦席(コックピット)があり、そこに座るべきは人間だ」**と主張しているに過ぎない。「チームみらい」が「いや、AIを座らせるべきだ」と言っているのと、構図は全く同じだ。

双方が無意識に共有してしまっているのは、「誰かが(あるいは何かが)決断すれば、社会はコントロールできる」という制御幻想だ。

だが、私たちが直面している現実はもっと残酷ではないか。気候変動、経済格差、国際紛争。これら超複雑系の相互作用は、とっくに人間知性の制御限界を超えている。実は、操縦席には誰も座っていなかったし、ハンドルは最初から繋がっていなかったのかもしれないのだ。

決断のロンダリング

ここで重要になるのが、**「決断」**という行為の性質だ。

「チームみらい」の支持者たちは、AIに権限を渡そうとしているようでいて、実は**「決断という重荷」を放棄(オフロード)しようとしているようにも見える。 正解のない問いに対して、誰かの利益を損なうかもしれない決定を下すこと。その心理的負荷と責任を、「AIがそう計算したから」という客観性の衣を借りて回避する。これは一種の「決断のロンダリング(資金洗浄ならぬ責任洗浄)」**だ。

逆に、「人間がやるべきだ」と主張する側は、権限(パワー)を手放したくないという欲望と、制御不能なものへの恐怖がない交ぜになっている。しかし、彼らが「人間的な決断」と呼ぶものも、しばしば「既存のしがらみ」や「情緒的なバイアス」の別名に過ぎないことがある。

AI派は「責任の放棄」を「最適化」と呼び、人間派は「既得権益の維持」を「倫理」と呼ぶ。 この「決断の押し付け合い」と「権限の取り合い」がメビウスの輪のように絡まり合っているのが、現在の議論の正体ではないか。

計算不能な領域で

もしAIに「政治」が可能だとしたら、それは「チームみらい」が夢見るような「クリーンな最適解の出力」ではないだろう。

政治の本質が、計算不可能な不確実性の中で、あえて一つの道を選び取る「賭け」にあるとしたら。 AIが真に政治的になるのは、膨大な計算の果てに「確率的には五分五分です。どちらを選ぶかは、論理ではありません」と、計算の敗北を認めた時かもしれない。

あるいは、その時こそ、人間が再び「決断」という泥臭い仕事を引き受ける出番なのかもしれない。「AIの計算ではこっちが正解だが、我々はあえて茨の道を行く」と宣言すること。それこそが、制御不能な現実に対する、人間独自の(そして最後の)「抵抗」としての政治なのかもしれない。

私たちは今、AIと主導権を争っているのではない。自分たちが作り出した「社会」という怪物が、もはや誰にも(AIにさえ)飼い慣らせないという事実から、目を逸らすための犯人探しをしているだけなのかもしれない。