場所: 夜、焚き火の傍ら。炎が小さくなり、熾火が赤く脈打っている。 登場人物:
- 老人: 文明のバトンタッチを見守る者。
- 若者: AIと共に新たな地平を歩き始めた実務家。
若者: 先生、前回は「AIを使うことは思考のドライブだ」という話をしました。 あれから少し考えていたんですが、もし快適なドライブがどこへでも連れて行ってくれるなら、僕たちはもう車から降りる必要はないんでしょうか? ずっと高速道路を走って、流れる景色を見ているだけでいいんでしょうか。
老人: ふむ。極端な問いだが、核心だな。 答えは「否」だ。ずっと車に乗っていては、失ってしまうものがある。
若者: 失うもの? 道端の花の匂いとかですか?
老人: もっと根源的なものだ。「自分がここにいる」という感覚、すなわち「実存」だよ。 時速300キロで移動しているとき、世界はただの映像(イメージ)になる。触れることも、匂ぐこともできない、薄っぺらなスクリーンだ。 AIを通じて世界を見ていると、時々自分が幽霊になったような気がしないか?
若者: ……あります。画面の中で膨大な仕事が片付いていくのに、自分の手は何一つ汚れていない。 世界がまるで、出来のいいビデオゲームみたいに感じられて、怖くなることがあります。
老人: それが「離人症(Depersonalization)」の始まりだ。 速度が極まると、人は現実から遊離する。 だからこそ、意識的に車を降りて、地面を踏みしめる必要があるんだ。これは趣味の散歩ではない。 現実感覚を取り戻すための、切実な「リハビリテーション」だ。
若者: リハビリ……。 AIが得意な「論理の森」ではなく、論理になる前の「混沌とした地面」を歩くことですね。
老人: そうだ。AIは種を森にすることはできるが、種そのものを作り出すことは(今のところ)苦手だ。 なぜなら、種は「論理」からではなく、身体的な「痛み」や「違和感」、あるいは「空腹」といった泥臭い生理現象から生まれるからだ。 それを拾い集めるには、やはり自分の足で歩くしかない。
若者: 歩くための靴を、手入れしておかないといけませんね。 車に乗りっぱなしじゃ、足がなまって、本当に歩けなくなってしまう。
老人: ああ。そしてその靴は、ピカピカである必要はない。 泥だらけで、傷だらけの方が、いい種が見つかるかもしれんぞ。 ……さて、そろそろ火も落ちてきた。今夜はここまでにしようか。
参考文献:
- Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, 1945. (邦訳『知覚の現象学』) - 身体こそが世界内存在の基点であるという身体論。
[対話シリーズ・完(第1部)]