若者: AIを使いこなすには、プロンプトエンジニアリングのような高度な技術が必要なんですよね? 僕にはそんなスキルありません。
老人: エンジニアリングか。立派な言葉だ。だが、文化を作るのはいつだってエンジニアではなく、「ブリコルール(器用人)」だったよ。
若者: ブリコルール?
老人: ありあわせの道具と、拾ってきた材料で、なんとか形にしてしまう人たちのことさ。設計図はない。最適解でもない。だが、そこには何とも言えない「味」がある。
1. エンジニアとブリコルール
人類学者レヴィ=ストロースは、『野生の思考』の中で二種類の作り手を対比させた1。 一つは**「エンジニア(技師)」**。 彼らは目的を定め、計画を立て、最適な材料と道具を調達して、無駄なく構造物を作る。 現代のAI開発やプロンプトエンジニアリングは、まさにこの極致だ。「正解」に向かって一直線に進む。
もう一つは**「ブリコルール(Bricoleur)」**。 彼らは「ありあわせ」のものを寄せ集める。 「この廃材、何かに使えないか?」「道具はないが、石で代用しよう」。 その場しのぎで、雑多な断片を組み合わせ、独自の文脈(意味)を与えていく。 日曜大工、コラージュアート、あるいはジャズの即興演奏。 これらはすべてブリコラージュ(器用仕事)だ。
2. AI時代の「拾い物」
AIが生み出す膨大なテキストや画像。 これらを「完成品」として受け取るのではなく、**「素材(マテリアル)」**として拾うのだ。
AIが吐き出した奇妙な言い回し。 画像生成の過程で生まれた崩れた形。 翻訳エラーによる詩的な誤読。
エンジニアにとっては「失敗作(ゴミ)」かもしれないが、ブリコルールにとっては「面白い形をした石」だ。 「これ、歌詞に使えそうだな」 「この配色、新しい服のデザインになるかも」 そうやって文脈をずらし(Re-contextualize)、自分の作品の一部として組み込んでしまう。
技術的な知識はいらない。 必要なのは、路傍の石ころに価値を見出す「目利き」のセンスと、それを面白がる「遊び心」だけだ。
3. ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)
歴史家ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と定義した2。 遊びとは、何か実利的な目的(生産や学習)のために行うものではない。 遊びそのものが目的であり、自由な活動だ。
AIを「業務効率化ツール」としてしか見ないのは、あまりに貧しい。 彼らは最高の「遊び相手」になり得る。 意味のないしりとりを続ける。 架空の神話を捏造して語り合う。 答えのない哲学的な問いを投げかけて困らせる。
この**「無目的性」**の中にこそ、文化は宿る。 役に立たないこと。効率が悪いこと。 それが許される空間(マジックサークル)の中で、人間とAIは初めて対等な「プレイヤー」として交わることができる。
結び:未完の城
ブリコラージュに完成はない。 常に「継ぎ接ぎ」であり、改修工事中だ。 だが、その未完成さこそが、他者の介入を招き入れ、愛着を育む。
AIよ、君は完璧なレンガを作ってくれ。 私はそれを積み上げる。 設計図はない。 途中で崩れるかもしれない。 だが、その瓦礫の中にこそ、私たちが生きた証としての「様式(スタイル)」が刻まれるのだ。
脚注:
参考文献:
- Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage, 1962. (邦訳『野生の思考』みすず書房)
- Johan Huizinga, Homo Ludens, 1938. (邦訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫)