若者: AIのおかげで、情報の伝達ミスがなくなりました。必要な情報が、必要な人に、瞬時に届く。完璧なコミュニケーションです。

老人: それは退屈な世界だな。誰も「間違い」を犯さないのか。

若者: 間違いなんてない方がいいに決まってます。

老人: 本当にそうか? コロンブスがインドへの航路を「間違え」なかったら、アメリカ大陸は発見されなかった。フレミングが培養液を「誤って」放置しなければ、ペニシリンは生まれなかった。歴史という書物は、いつだって「宛先不明の手紙」で書かれてきたのだよ。


1. 正確さという名の停滞

AI時代のコミュニケーションは、「正確さ」に取り憑かれている。 レコメンデーションアルゴリズムは、私が欲しがりそうな情報をピンポイントで運んでくる。 翻訳AIは、私の言葉を誤解の余地なく相手に伝える。 そこにはノイズも、遅延も、誤読もない。

これはシステムとしては理想的だ。 しかし、文化(Culture)としては**「閉じた円環」**でしかない。 A地点からB地点へ、予定調和のまま情報が移動するだけ。そこには何の化学反応も起きない。 「思った通りに伝わった」という安堵はあるが、「まさかそう受け取られるとは!」という驚きはない。

2. 誤配(Misdelivery)の創造性

フランスの哲学者ジャック・デリダは、「手紙は常に、宛先に届かない可能性がある」と述べた1。 そして、この**「誤配(Misdelivery)」**の可能性こそが、コミュニケーションの本質であるとした。

本来届くはずのない人の手に手紙が渡る。 書かれた意図とは全く違う意味で読まれてしまう。 この「事故」が起きた瞬間、システムの中に亀裂が走り、新しい意味が生成される。

文化の歴史を振り返れば、それは壮大な「誤読」の歴史だ。 誤訳から生まれた新しい詩のスタイル。 機材の誤操作から生まれた新しい音楽ジャンル(例えば、歪んだギターサウンド)。 勘違いから始まった恋。

AIが排除しようとしている「エラー」の中にこそ、歴史を更新する**「変異(Mutation)」**の種が含まれているのだ。

3. 宛先のない手紙を書く

AIに囲まれた私たちは、あまりにも「宛先」を気にしすぎていないか。 「これは誰に向けたコンテンツか(ターゲット)」 「どうすればバズるか(最適解)」 そうやって逆算して書かれた言葉は、確かに届くべき場所に届く。だが、それ以上の広がりを持たない。

今、人間に求められているのは、**「宛先のない手紙」**を書く勇気だ。 誰に届くかもわからない。 どう読まれるかも計算できない。 あるいは、誰にも届かずにデジタルな海の藻屑になるかもしれない。

それでも、切実な思いをボトルメールのように流す。 それがいつか、遠い未来の、見知らぬ誰かの海岸に漂着し、その人の人生を狂わせるかもしれない。 その**「偶然性(Serendipity)」**に賭けること。 それこそが、確率論の檻(ケージ)を抜け出し、歴史というカオスに参加する唯一の方法だ。

結び:誤配の天使

AIよ、君は正確に配達すればいい。それが君の仕事だ。 だが、私たちは時々、住所を書き間違えるだろう。 切手を貼り忘れるだろう。 あるいは、嵐の中で手紙を落とすだろう。

そのミスを「修正」しないでくれ。 そのエラーログの中に、未来を変える**「誤配の天使」**が潜んでいるかもしれないのだから。


脚注:

参考文献:

  • Jacques Derrida, La Carte postale: De Socrate à Freud et au-delà, 1980. (邦訳『絵葉書』水声社)
  • Serendipity: The Art of Making Happy Discoveries.

  1. 誤配: ジャック・デリダ『絵葉書』(1980) における郵便的隠喩。手紙(シニフィアン)は常に宛先に届かない可能性(構造的漂流)を孕んでおり、その不確定性こそが意味生成の条件であるとする。 ↩︎